亡国の世迷言 マラゴニア王国

マラゴニア王国は架空の国。マラカスの妖精マラゴンが治めている。

自立と依存

『自立とは何か』こう検索を掛けると、Cadotと言うサイトが見つかる。

ここで自立と依存の仕組みを独自の視点で解説されているのだが、これがなかなか鋭い。

私は話題になっている事を知らなかったのだが、人伝てに聞いて知る事となった。

私の思っていた事を的確に解り易く書いてくれているので、是非参考にされたい。

私からも重複するが、改めて自立と依存の仕組みを書いてみようと思う。

結論から言うと、人は何かに依存しないと生きては行けない。

つまり依存しない状態と言うのは、有り得ないのだ。

その前提がある上で自立していると言える状態になれるのは、ある種の錯覚を体現出来るかに依る。

つまり依存しているのだが、ある特定の人物や事柄に依存している状態が短い場合、当然それに対する依存は少なくなる。

結果それに依存しているとは、見えなくなる。この状態を、自立と呼ぶのである。

最もそれを実現するには、依存先を次々に移って行く必要がある。

依存先の数がたくさんあり、早いスパンで渡り歩く人が自立している人と見られるのだ。

いわゆる依存症と病扱いされる現象は、この定義で言いはめると、依存しているのが特定の何かに限定してしまっている事になる。

頼れる人、場所、システムそう言うのを複数持てるよう努める事が、自立へ向けた一歩になる。

 

経済的アプローチ

世の中、金が全てだ。

心の豊かさを育てる事が大切だと言うが、それは生活の安定があって初めて向き合える事なのである。

メンタルヘルスその面に長く取り組んで来たが、生活の基盤を成す経済的な側面からのアプローチも同時並行的に診て行かなくては意味がない。

私はどうもそっち方面が余り得意ではないが、メンタルヘルスと経済的生活の安定は一対なのだ。

カウンセラーにはケースワーカー的側面が欠け、ケースワーカーにはカウンセラー的側面が不十分である事は往々にしてある。

これからはこの両輪を意識して診て行かなくては、本当の安寧は訪れない。

 

 

問題は複合的な物だ。

どんなに心の学びを深めようとも、人は慣れない状況では少なからず取り乱すものである。

 

ただ理を理解して行けば、それが来ては去って行くものだと言う事を思い出し、比較的早く冷静になれる。

 

この世は何かと騒がしい、トラブルの種は手を変え品を変え休む間もなく私達に襲い掛かる。

 

もしいつまで経っても心が落ち着けないなら、きっと色々な要因が一丸となってやって来ているのだろう。

 

例えば風邪を引いたとしよう。

 

最初喉の違和感から始まり、身体が怠くなり熱が出て、頭が重くなり鼻水が出て咳も出る。

 

風邪を引くと暫く上記の一連の症状で苦しく怠い日々を過ごす事になるが、それらの症状がいっぺんに来る事はまずない。

 

徐々に加えられたり、減ったりしながら風邪は治癒して行く。

 

トータルで風邪と言う症状を形成してはいるが、喉だけがイガイガする時期、熱が出て鼻水や咳が重複する時期、鼻水や咳だけが残る時期。

勿論風邪が必ずこの手順と言う訳ではないが、風邪と言う苦しみも一つ一つ分析すると苦しみの種類が変化している事に気付く。

 

心の苦しみもそれを構成する要素は多義に渡り、しかしその一つ一つは長くは続いてない場合が多い。

 

トラウマになる程の心の傷は、複数の要因が複合的に形成されていている事が多いので、断続的に繰り返し長引いてしまう事がある。

 

また新たな刺激が、それを強化してしまう場合もある。

 

しかしトラウマを形成する要素の一つ一つは、いつも入れ替わっている。

 

重度のトラウマは、新たなる刺激を産まない環境で過ごす事が望ましい。

 

その上でトラウマの構成を分析し、その一つ一つが実体を伴わない物である事を理解して行くのである。

 

ゆっくり一つ一つ、癒して行こう。

 

 

実るほど頭を垂れる稲穂かな

優れた武士は、何人にも丁寧に向き合った。

相手が何万石と保有する大名であれ、病で瀕死の遊女であれ、媚びる事なく奢る事なく向き合った。

武士は知っている、己の心を惑わす者が自分自身である事を。

大名と向き合った時沸き起こる嫉妬が、遊女と向き合った時毛嫌いする気持ちが、全て己自身の感情から由来する事と理解していた。

だからこそ、彼は何人にも丁寧に向き合った。

己の感情を揺らがせる者、それが目の前にいる誰かであると思っていては、こうも冷静に彼は相対する人物と平穏な時間を持てなかったろう。

己の中の凝り固まったある観念に囚われると、冷静さを喪う事になると彼は熟知していた。

常に胸襟を開き、問題を己の中に留めずきちんと消化しては流していく。

優れた武士は、とても身軽であった。

コントロールしない

流れに身を任せる。

 

抗わない。

 

流れに逆らうと、余計に体力と精神力がいる。

 

だから流れに乗って、悠々と生きて行こう。

 

でもここで言う流れとは何か?

 

それは自分自身が持つ、生活リズムの事である。

 

もっと言えば、自分の気持ち、感情の流れの事だ。

 

いわゆる世間一般が持つ、社会的な流れの事ではない。

 

社会的な流れとは慣習だったり規則だったり、そうした諸々の諸条件が作り上げる流れの事だ。

 

流れに身を任すと言ってもこちらの流れに身を任せては、地の果てまで流された上身も心もボロボロになるだろう。

 

或いは流されぬよう、激流に逆らい必死にそれに抵抗したとしても、同じく身も心もボロボロになるだろう。

 

自分には自分だけが流れて行ける川がある。

 

ワクワクの川だ。

 

激流に逆らっている時はもちろん流れに乗っている時でさえ、そこにワクワクがないのならその流れは偽物の流れなのである。

 

それに気付いたのならば、その流れからさっさと立ち去るべきだ。

 

ある程度流れが強いと、すぐに立ち去れないかも知れない。

 

その時はある程度抗う事が必要かも知れないが、高い視点で見ればそれすら自分の本来の流れがそうさせていたと気付くだろう。

 

コントロールしないと言うのは、実は凄く不自然な表現なのだ。

 

何故なら、そもそも何事もコントロールする事が出来ないからだ。

 

ワクワクする感情も自然と涌き出でるものだし、ましてや社会的流れの方も決してコントロール出来る類のものではないのだ。

 

もし仮に何事もコントロール出来ると思えるなら、それこそが大いなる錯覚である事を知ろう。

 

 

 

 

 

所詮は一つの考え方に過ぎない

ある考え方がどんなに正しくて、多くの人が共感出来る考え方であっても、所詮は一つの考え方に過ぎない。

 

それは絶対的でなく、移ろい行く事なのである。

 

この事はここで何度も言って来た。

 

もし仮に自分の考え方がそう言う事と大きくズレていたりすると、ついなかった事にしがちである。

 

全ての考え方が実体のない陽炎の様な存在であるとどんなに説いても、なかなかその事を実感出来ないのが人を苦しめる元凶なのである。

 

だから改めて言う、自分の常識にNOを言い、本当に今したい事をする様にシフトして行こう。

 

つまりワクワクする事を、やりきろうって事だ。

 

何をしても、賛否両論必ずある。

 

批判されたり否定的な状況が例え起きようとも、そこに喜びやワクワクがあればそんなネガティヴな出来事は陳腐な事に過ぎないと思えるだろう。

 

もしそう思えないなら、きっとやった気になっているだけで実際は何も出来ていないのだ。

 

殆どの場合、最大の敵は自分自身の固定観念だと言い切っても良いだろう。

 

久しぶりにここでこんな事を書こうと思ったのには、訳がある。

 

それが良い例なのか悪い例なのかは正直微妙だが、とある有名人の自伝を読んである意味これが究極スタイルなんだろうなと思ったからだ。

 

その人は人に全く媚びないのだ、いつ如何なる時もマイペースを突き通す。

 

嫌われても非常識と言われても、逮捕されても…

 

ワクワクの為に、全ての時間を自分に捧げている。

 

捧げてるとは本人は思ってないかも知れないが。

 

私はやはり法に触れる域まで行くと弊害の方が多い様に思うし、我を通す事で要らぬ敵を産む事の弊害も考慮に入れてしまうので、彼ほど徹底的なワクワクスタイルは馴染めないと思っているが、やはり行き着く所まて行った姿なのだろうなと思わずにはいられない。

 

そうその方は、ヒントで申し訳ないが、どこでもドアのドラえもんみたいな呼び名で呼ばれている。

 

 

 

 

80%と20%

すっかり書いている気になっていたが、こんな肝心な教訓が抜けていた。

 

人はどんなに気に入られようと努力しても、精々80%の人々に好かれるのが関の山らしい。

 

つまり後の20%の人には、嫌われると言う事。

 

万人に受けいられると言うのは、不可能なのである。

 

どんなにコミュニケーションスキルを磨こうが、後の20%の人々には受け入れて貰えないのだ。

 

反対に悪態をつき人に嫌われようとしても、20%の人はそんなあなたを好きだと言う。

 

実際には悪態の程度にも依るだろうが、総スカンと言う事はない。

 

死刑囚になる程重大な事件を犯した人が、事件後に知り合った熱心な支援者の方と結婚したと言う話もあるくらいだから。

 

嫌われ者と揶揄されるトランプ大統領も、支持率が40%位あると言う。

 

なかなかどうして、結構高くないか?(一国の大統領としては問題だろうが…)

 

この教訓を活かして、私は随分と気持ちが軽くなった。

 

最も初めてそれを聞いた時は、コミュニケーションスキルを磨けば80%位の人に好かれる様になるんだと意気揚々としていたが…(流石に100%の人に好かれる様になるとは、思わなかった。)

 

しかしふと80%の人々に好かれる人を目指す事に、過剰なストレスを覚える様になった。

 

考えてもみよ、色々な考え方の人がいるのに大多数の支持を得る様に努力するとは、どれだけ自分を変えないといけないか。

 

当たり障りのない言葉を話し、作り笑いをし、確かに社会生活を円滑に進めるには必要なスキルかも知れないが、そうやっている自分にある時嫌気がさした。

 

特に作り笑い、嬉しくもないのに笑顔などしたくもない。

 

そんな時この教訓の、負の部分(負は言い過ぎか)が心をノックした。

 

嫌われようとしても、20%の人が好きだと言ってくれる。

 

何も嫌われようとする気は毛頭ないが、変に媚びたりせず、自分の気持ちを優先して自分に正直に生きる。

 

実際自分らしく振舞ってどれ程社会に受け入れられるのかは未知数だが、それこそトランプ大統領ではないが、例えば40%位の人に好かれる程度で充分ではないか?