波であり、ゆらぎであり
久しぶりに続きを書く。
私が伝えたいと思う事の殆どを既に書いて来たし、日常の出来事を綴る事を目的にはしていないので、重複する内容になるかも知れないが、昨今の世界情勢が更に混沌として来た様に感じられるので、こんな時こそ私が指針としている考え方に触れて欲しいから、僭越ながら更新する事でアピールする事にした。
タイトルにも書いた様に、物事の本質は波であり、ゆらぎその物である。
『動き』と言う現象が実体の様な物で、何か具現化された物がある訳ではない。
何らかのエネルギーと呼ぶべき物が、実体と呼ぶに相応しいかも知れない。
それはビックバン以前から、存在していた物であろうと想像している。
物事の本質が『動き』つまり波でありゆらぎなのだから、世の中が移り変わる事は自然の摂理なので我々にはどうする事も出来ない事なのだ。
ずっと上昇、調和に向かうのではなく、下降、分断にベクトルが向かう事もあって然るべきなのだ。
いつも言うが、上昇や調和に向かっている時はずっとこの調子であり続けたいと思うのが人情だが、本質が波でありゆらぎであるので、やはり後ろ向きな時期があるのも致し方ない事である。
歴史は繰り返される。
ノンストップのこの理りは、永遠にこれを繰り返すのである。
空想の産物に打つ勝つ為に
前々回の記事で、『死後の世界観』についてあらゆるそれにまつわる情報は、不確定なものだと述べた。
日本と言う信仰の自由が許されている国で色んな宗教が称える様々な『死後の世界観』を知る事が出来るからこそ、様々な相違点を知り、幸か不幸か死後の世界に対する絶対的なイメージと言うのが私の中に形成されなかった。
更には非二元論的な事に傾倒して行くにつれ、そっちの世界に対する好奇心が薄れて行った。
しかし前々回の記事でこの世は現実世界なのである程度は知覚出来るが、あの世に関しては想像の域を拭えないと書いた。
現実世界と空想世界、どちらの方が伸び代があるかと言えばやはり空想世界だろう。
良くも悪くも色々な内容を付け加えたり、変えたり自由に想像出来る。
現実世界に辟易している人に取って、幾らでも美化する事の出来るあの世、つまり死後の世界は正に新天地以外の何物でもない。
そんな幻想に取り憑かれ、戻る事の出来ない世界に飛び込む事は、あまり良い事とは思えない。
だからこそ、私なりの死後の世界観を書いてみようと思う。
これは飽くまで私個人の結論であり、これもまた一つの幻想である事を先に断っておく。
私が考えるあの世、それは正にこの世のコピーだと思ってある。
否、それを言うなればこの世があの世のコピーと言うべきか。
つまり死後も同じ世界を『生きる』事になると考えている。
でも根本的な違いもあろう、あの世は時間と言う概念がなく、物質的な制約がない世界であろうと想像する。
この世では思った事考えた事がすぐ起こらないが、あの世はすぐ叶える世界ではないかと思う。
間髪入れずに空を飛びたいと思えば飛べるだろうし、黄金に塗れたいと思えば金ぴかの世界が心置き無く創れるだろう。
透き通る空気の中、煌びやかに輝く穏やかな陽の光の元で好きなだけ寛ぐ事が出来るかも知れない。
迷いなく美しく清いイメージを想像、維持出来る人は、きっとあの世では天国の様な世界に暮らせるだろう。
逆に大地震が起こるのではないかと考えたり、機関銃を乱射する集団に絡まれるんじゃないかとか、ゾンビに追い立てられるのではないかなど後ろ暗い想像をしてしまう人は、間髪入れずに恐ろしい世界に取り込まれる。
絶え間なく想像が創造される世界、生きている時に楽しい暮らして来た人は、きっと楽しいあの世を生み出せるだろう。
でも後ろ向きで絶えず怒りや不満を抱えて生きていた人は、あの世でもきっと悪い想像を創造して行くだろう。
それが正に地獄である。
そう考えると今正に生きているこの時に、良い心構えを構築する事が大切なのではと思う。
いざこの世を去る時の為に。
良い心構えとは、このブログを通して色々書いているので参考にして貰えればと思う。
ただ簡単に言うと、人生を楽しめば良いのだ。
人の行いは全てポジティブだ②
自殺とまでは行かなくとも、自らを傷つける自傷行為と言うものがある。
腕や手を切ったり、髪の毛を抜いたり、爪を噛んだり、洗剤を食べたり、身体に火を押し付けたり…
これも色々人により目的は変わるだろうが、傷つける事で生きている実感を得られたり、気持ちが晴れたり(生理学的には、脳内にリラックス効果のある成分が分泌されるかららしい)全部が全部脳内の快感成分の効果ではないだろうが、自傷行為をする事で何らか気分転換が得られるなら、つまり気分が良くなる、ましになると考えれるならその瞬間の動機は、ポジティブなものと言えるだろう。
また自己破滅的な行い、犯罪行為と解っているのに手を染める行為もまた一種の自傷行為だろう。
また如何わしい場所に近寄るとか、無駄に借金をするだとか、そう言った類の事も、その瞬間に何らかの期待(人生の好転を期待する心理)があるので、(危険な場所と言うのは、財テクや投資などのハイリスクだけどハイリターンが見込める商品に似た感覚ある。)やはりそれを選ぶ瞬間はポジティブである。
自殺や自傷行為が自分に向かう人がいる一方、それが外に向かう人もいる。
町中に落書きをする、爆音を鳴らしながら暴走する、誰かを傷つける、テロをする。
こう言う事も、とどのつまりはやってる当人に取っては、ストレスの解放だったり、自己顕示欲を満たせたりとそれなりにポジティブな事なのだ。
この様に全てのネガティヴと思しき事象も 、それを行なっている当人のやり始めた時の動機は、全てポジティブな事として始められる。
もし前向きに何かをしようとしている事を邪魔されたら、誰だって良い気はしない。
しかし大概こう言う行為は、何らかの善意によって邪魔される。
これがこう言う事を拗らす、最大の原因なのだ。
まだ事が大きくなる前なら、大騒ぎする事なく経過を見守る事が大切だ。
また大問題になっていても、更なる悪化を防ぐ為にも、まずは当人の元々の動機に思いを馳せながら望んでもらいたい。
これは残念ながら、かなり大変だけど。
人の行いは全てポジティブだ①
何人も何か行動を起こす瞬間と言うのは、全てポジティブである。
こう書くと、自殺や何らかの破壊的行為はとてもじゃないがそう思えないと苦情を受けそうだが、それを選んだ当人にしてみれば、やはり前向きな行動だったのだと頷かざるを得ない。
但し通常ネガティヴな出来事であるそれらの行いがネガティヴである所以は、行動後の結果が概ね物語っている。
ではまず自殺から診て行こう。
自殺を選択する心理とは、現状に希望を見出せなくなった時だ。
どん底の生活であっても、まだそこに希望があれば決して死を選ばない。
しかし何らかの想定で、このままこの生活を維持出来ない或いは悪化すると感じられる様になれば、死と言う選択肢が脳裏を掠める。
死ぬ事と生き続ける事、この二つの要素の中でどちらが『良い』或いは『まし』なのか比べた時、死ぬ方がプラスと考えられた時、人は死を選ぶ。
つまりこれが、ポジティブな選択と言う事になる。
死後の世界と言うのは、残念ながら明確な答えがある訳ではない。
全ては誰かや何かの、つまり宗教的な事や文化慣習から由来する事で定義付けられている場合が殆どだ。
中には霊的な啓示受けて?と言うのもあるかも知れないが…
何にしてもあの世が薔薇色に思えたり、この世から抜け出し何もない状態になれるとすれば、つまりゼロ地点に行ける(或いはもっと上)なら、マイナスなこの世の生活よりプラスな世界に行けると考えるのは、自然な事だろう。
こう言えばあの世に変なロマンを感じるかも知れないが、私に言わせればあの世に対するそれらの情報は全て未確定な事ばかりだ。
あの世は天国だとか、何もない世界になるとか、地獄があるとか、そうかも知れないしそうでないかも知れない。
つまりよくわからない世界について、ある一定のイメージを持つ事は非常にナンセンスだと思う。
この世は今ある現実なので、ある程度は理解出来る。
しかしあの世だけは、どこまで行っても想像の産物でしかない。
そんな未知の世界に、本当に望みが持てるだろうか?
この世より、もっと最悪な世界である可能性だってあるのだから。
続く。
諦観の所、一部訂正
昨日の記事を読み返すと、少し矛盾があり要らぬ誤解を生みそうなので、訂正したい。
私の考えてる事は概ねあれで合っているのだが、『柵がなくなる』とした部分、以前『非二元論』の所でも触れたと思うのだが、様々な柵や不安、心配と言った心を乱す要素が一時的にも無くなるとするのは間違いだと考えている。
こう言った事は、どんなに心を前向きにしてもずっと付き纏う。
ただある程度自分の置かれている状況に納得すれば、(先の記事の言葉を引用すれば、府に落ちればになる)そう言った柵や不安、心配事に余り捉われなくなると言う事なのだ。
あたかも無くなったかの様に。
でもすぐそう言った感情は、舞い戻って来るもんだ。
得てして人生とは、そんなものだ。
流れに乗っている時と言うのは、意識がネガティヴな物に行き難いと言うのが、一番しっくりくる考え方だと思う。
諦観
諦観って言葉を初めて知ったのは、もう20年程前の事だ。
仏教用語としても、使われる。
意味は、あきらめ悟って超然とするなどと紹介されていたりする。
悟りの心境に思いを馳せていた時は、諦めると言う言葉にかなり違和感を覚えたものだ。
余りにネガティヴ過ぎると感じたから。
しかしながらそんな心境にでもなれば、諦観と言う言葉がしっくり来るのかとさえ考えていた。
しかし今ではすっかり悟りの境地を目指す事すら目的としなくなったので、敢えて悟りの境地なる事を必要としていないが、私はそれが何たるか自分の中で腑に落ちた時に、更に諦観と言う言葉に違和感を覚える様になった。
私が感じた心境を敢えて言葉にするなら、しがみ付いていた事柄からただ離れた、或いは手放した。
そして流れるままにただ在るって事だろうか。
諦めると言うのはまだ未練がある様に感じてならないので、本当に腑に落ちた時は柵(しがらみ)すらない状態ではないかと思う。
諦観を敢えて私風に表現するなら、『無柵只流』、となる。
これは完全に造語だが、それが一番諦観と言われてる表現に近い気がする。
原因探り過ぎるのは、身体に毒である
前回複雑系の話を書いたが、それは物事には必ず原因があって、その結果今在る状態を作り上げていると言う前提の元、科学されている学問だと思っている。
『頭から血が出てる、ああ、さっき打つけたから。』なんて言う原因と結果がすぐに解る様な事柄ばかりだと苦労はしないが、なぜそんな事が起こるのか、なぜこんな環境に生れ落ちたのかなど、幾ら原因を探してもすぐに解明出来ない事柄は意外と多い。
複雑系の様に、アメリカの大統領が風邪を引いたのがアフリカのあの蝶が羽ばたいたからなんて言う、突拍子もない原因を持ち出してまで推敲する必要性があるのか、研究の自由は認めるが私には無駄に思える。
いや確かに秘宝を求めて旅立つ勇者の如く、彼自身がそれを探す事に熱意を持っているのなら、寧ろ推奨はしたい。
でも今ある人生の、様々な理不尽と思える出来事に対して、原因を探しに過去生に思いを馳せたり、何らかの見えない存在にアプローチする事に時間を割く事はあまり建設的とは思わない。
仮に輪廻転生と言う概念が正しくて、原因が何回か前の生の時にあったとしても、それを探し出すのは、大変な作業になるだろう。
見えない存在も挙げられる存在は数多とあり、意見を聞こうにも誰に何を聞けば良いか迷う程だ。
いや、そもそも空想の産物と捉える向きもあるが、その辺は解らないと言うのが妥当なところだろう。
何にせよ、原因を追い求め過ぎるのは、あまり好ましい事ではない。
それに時間を割くのは、止めよう。