諦観
諦観って言葉を初めて知ったのは、もう20年程前の事だ。
仏教用語としても、使われる。
意味は、あきらめ悟って超然とするなどと紹介されていたりする。
悟りの心境に思いを馳せていた時は、諦めると言う言葉にかなり違和感を覚えたものだ。
余りにネガティヴ過ぎると感じたから。
しかしながらそんな心境にでもなれば、諦観と言う言葉がしっくり来るのかとさえ考えていた。
しかし今ではすっかり悟りの境地を目指す事すら目的としなくなったので、敢えて悟りの境地なる事を必要としていないが、私はそれが何たるか自分の中で腑に落ちた時に、更に諦観と言う言葉に違和感を覚える様になった。
私が感じた心境を敢えて言葉にするなら、しがみ付いていた事柄からただ離れた、或いは手放した。
そして流れるままにただ在るって事だろうか。
諦めると言うのはまだ未練がある様に感じてならないので、本当に腑に落ちた時は柵(しがらみ)すらない状態ではないかと思う。
諦観を敢えて私風に表現するなら、『無柵只流』、となる。
これは完全に造語だが、それが一番諦観と言われてる表現に近い気がする。